人を思う

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某が亡くなったとの連絡を受けたのが昨年の09/01.というわけで,今日は彼に会いに行ってきた.
ちゃんとした場所は知らなかった―というか当時の状況では聞き出せなかった―のだが,花を撒いたとの情報があったのでそれを頼りに探し出す…そこには花束とバナナ一房,路傍の石で組んだ炉には線香の灰.ウチはそんな気の利いたものは用意できないので,火をつけた煙草と水を彼に.そこがニセアカシアであることと,そこにバナナがあることと,なんとも不思議な感じで思わず苦笑.非常に彼らしい.
で,だ.彼は当時どんな状態だったのだろう…素面状態?酩酊状態?彼は当時なにを考えていたのだろう…希望?絶望?イニシエーション?カタルシス?などとモヤモヤ考えてるうちに,思考がどうしても「なぜ自分は生きているのか」という方向に流れていってしまう.ウチに来ている住職が「法事というのは,先祖が自分の生について考える機会を与えてくださっているということを認識するためのものです」なんて法を説いていたけど,これがそういうことなのかもしれん.彼は生前いつも一風変わった考え方をウチらに伝えようとしていたけど,今も何かを伝えてくれているのだな.ありがたいというか迷惑というか,つーか生についてなんか教えてくれなくてもよかったよ.
彼が亡くなったこと,認識しているけど認識したくないとか思っているので,大人になれない大人なので,安らかに眠れとか成仏しろよとか言わないけど.また来年.
つーかこういう文章を垂れ流してる時点で自分がカタルシスを得ようとしてるんだろうな.あざとい.